ソマリアについて少し調べてみた。
正式名称はソマリ語で「Soomaaliya」。アラビア語で「الصومال」(アッ=スーマール)。公式の英語表記は「Somalia」。日本語の表記は「ソマリア」。
ソマリアの公式国名を「ソマリア民主共和国(Somali Democratic Republic)」とする場合が多いが、これはモハメド・シアド・バーレ政権下で「ソマリア民主共和国憲法」が有効であった時期の国名。1991年に同政権が崩壊し憲法が廃止されて以降、国際的に認められた政府が出てきていないため、ソマリアに公式国名は存在しない。なお、現在の政府は「ソマリア共和国(Republic of Somalia)」を国名としているが、全土を実効支配しておらず、また暫定政府にすぎないため、公式国名とは見なされていない。
1960年 - 1969年、ソマリア共和国
1969年 - 1991年、ソマリア民主共和国
1991年 - 、ソマリア(公式国名無し)
植民地時代
1886年にイギリスが北部をイギリス領ソマリランドとして領有。
1908年までにイタリアが南部をイタリア領ソマリランドとして領有。第二次世界大戦中、一時はイタリアが全土を占領,
イタリア領東アフリカの一部となったが、その後イギリスの施政下に。
1948年に北部がイギリスの保護領に。
1950年には南部がイタリア信託統治領ソマリア領に。
独立後
1960年6月26日、イギリス領がソマリランド国として独立。5日後の7月1日にはイタリア領も独立し、南北統合でソマリア共和国が発足。
1969年10月、クーデターでモハメド・シアド・バーレ少将が実権を握り、国名をソマリア民主共和国に変更。
1970年10月には社会主義国家を宣言、ソマリ社会主義革命党の一党独裁体制に。
1977年、エチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動に端を発してエチオピアとの間でオガデン戦争勃発。(1988年の両国の停戦合意まで続く。)
1977年10月、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件。
1980年1月、人民議会はバーレを大統領に選出。
1982年 反バーレの反政府武装闘争が表面化。ソマリア内戦勃発。
1991年5月、反政府勢力ソマリ国民運動(SNM)が首都を制圧。バーレを追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任。しかし各勢力の内部抗争により南北は再び分裂。
反政府勢力統一ソマリア会議(USC)の内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立。
1991年6月、北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立宣言。バーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命。
国連PKO介入後
1991年 アイディード将軍派に首都を追われたモハメド暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請。
1992年12月、国連PKO部隊、多国籍軍を派遣。
1993年5月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動展開。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告。
1993年10月、モガディシュの戦闘。
1993年 アメリカ、ソマリアからの撤兵。
1995年3月、国連PKO部隊撤退。アイディード派がアリ・アト派と内部分裂。
1995年12月、ナイジェリアに亡命した、バーレ元大統領が、同国ラゴスにて死去。
1996年8月、アイディード将軍死去。
1998年7月、ソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都とする自治政府・プントランド共和国を樹立。
2000年5月、ハッサン暫定政権樹立。アイディード派やソマリランドなど独立勢力を排除した為に、内戦は続き、更に国家の分裂が進む。これ以降、氏族・軍閥・宗派と、様々な勢力が対立する群雄割拠状態となる。
2006年6月、イスラム法廷会議が首都モガディシュを占領。イスラム教とキリスト教という宗教対立によって、対外戦争の火種となる。
2006年12月、キリスト教国のエチオピア軍が侵攻してソマリアを制圧。暫定政府が国権を掌握する。
2007年1月、アメリカ軍がエチオピア軍支援のため空襲。暫定政府は法廷会議に対し勝利宣言を行う。法廷会議はケニア国境付近へ逃走し、国内の残党との連携で後のデモやテロの根源となる。PKO再派遣が決定されるも、アフリカ連合(AU)中心で、参加国数も内容も低調に終わった。
2008年8月、イスラム法廷勢力との間の停戦協定。
2008年12月、アブドゥラヒ・ユスフ大統領辞任。
2009年1月、イスラム法廷会議の流れをくむソマリア再解放連盟(ARS)の指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが大統領に選出され、オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相とする内閣を発足させる。
2010年7月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は、難民流出の状況を発表した。それによると、ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6ヶ月で約3万人。2009年同期の4万4000人から3分の1近く減少した。アデン湾向岸のイエメンへの難民も2009年同期の1万3000人から6700人に減少した。事務所の報道官は、減少は安全でなく不安定さを増していると記者会見で語った。
人権
ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ・イエメン・イラン・アフガニスタンなどと同様ブラジャーを着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。 強盗犯に断手刑を執行された事例もある。 9歳くらいでも婚約が認められる。
政治
バーレ政権時代の最盛期には社会主義の名の下強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、「モガディシュ市長」または「モガディシオ市長」と綽名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。追放後、ソマリアには中央政府が存在しない状態が続いている。
政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。
2000年に誕生した正統暫定政府はジブチ共和国の首都ジブチ市に設置されていたが、周辺7カ国で構成する政府間開発機構(IGDA)の仲介で2004年に新たな暫定連邦政府がケニアのナイロビに発足し、2000年設立の暫定政府を継承した。国内統治を回復出来ず、その本拠地は南西部のバイドアに置かれている。
2006年6月、イスラーム法学者(ウラマー)たちで運営する司法組織・イスラム法廷連合(のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、南部一帯を支配。イスラーム主義的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけている。
国際連合安全保障理事会は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに国連平和維持軍の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定政府軍がエチオピア軍の支援の下でイスラム法廷会議に攻勢をかけ、モガディシュを奪取した。その後もイスラム法廷会議は南部へと敗走を続けた。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だったキスマヨを制圧し、暫定政府軍は、ソマリランドを除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。
暫定政府は2007年7月に国民和解会議を開催して国内の各勢力の和解に乗り出す。 2008年12月29日、暫定政府内の対立からユスフ大統領が辞任する。2009年1月31日、ジブチにおいて開催されたソマリア国会で大統領選挙がおこなわれ、イスラーム法廷会議の流れをくむイスラーム再解放同盟(ARS)の指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが新大統領に選出された。アフメド新大統領は2月20日にはオマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相に任命し、新政権を発足させた。
2009年4月18日、暫定議会は全会一致でイスラム法の導入を決定した。
2009年6月18日、反政府軍への掃討作戦を指揮していたオマル・ハシ・アデン国家安全保障相が自爆テロにより暗殺される。さらに同月22日、暫定政府軍に対して攻勢を強めるイスラム急進派アッシャバーブの部隊に大統領官邸が包囲される事態となり、アフマド大統領はソマリア全土に非常事態を宣言するとともに、ケニアやエチオピアなど周辺国に対して軍事介入を求めた。
2010年9月21日、暫定政府のシェルマルケ首相は、治安対策の失敗の責任をとり辞任した。背後にはイスラム強硬派(アルシャバブなど)武装勢力の攻勢が強なるなかで、政府運営を巡るアハメド暫定大統領との確執があると推測されている。こうしたなか人口約800万人の40%以上に当たる約320万人が人道援助に依拠し、約140万人が国内避難民、約59万人が近隣諸国に難民として生活している。
経済
内戦で経済は壊滅、崩壊状態である。世界最貧国の一つで、平和基金会が発表した失敗国家ランキングでは3年連続で第1位に位置している。また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革。主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在するが、未開発である。
通貨はソマリア・シリング(SOS)。アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1ドル=1387.77ソマリアシリング、1ソマリアシリング=約0.09円。現在国内ではドルやユーロ、サウジアラビア・リヤルなどが主に流通している。
主産業は、バナナを中心とする農業、ラクダ(飼育数世界1位)・羊・ヤギなどの畜産業。畜産業の経済に占める比率はGDPの40%、輸出収入の65%に達する。農産品の加工を軸とした小規模な軽工業はGDPの10%に達する。
皮肉なことに、最近では1隻あたり100万ドルといわれる海賊業も主要な外貨獲得源になっている。
国民
ソマリアは凡そ9,832,017人の人口を有し、85%がソマリ人である[6]。1990年代初頭の内戦により、ディアスポラ(ソマリ人ディアスポラ(en))の数が著しく増大することとなった。この際は国内でも最も教育水準の高いソマリ人が大挙中東やヨーロッパ、北アメリカなどに逃れた。
ソマリアの都市化に関して信頼性の高い統計情報は殆ど存在しない。しかしながら、荒い推計によればソマリアの都市化率は年間5%~8%と看做すことができ、多くの町が急速に都市に成長している。現在のところ人口の34%が町や都市に居住しており、この割合は急速に増加している。
言語
ソマリ語はソマリ人の国語であり、少数のマイノリティとも同様に、ほぼ全てのソマリ人によって事実上全土で使用される。少数派言語は存在し、ソマリア中南部でラハンウェイン氏族によって話されるAf-Maayが挙げられる。様々なスワヒリ語(Barawe)もまた沿岸部一帯でアラブ人によって話され、バントゥー語(Jareer)もまた話される。
多くのソマリ人はアラブのメディアや、宗教教育の遠大な影響によるアラブ世界との緊密な結びつきのため、アラビア語を話す。英語も旧イギリス植民地であるソマリランドで広く用いられ、教えられている。イタリア語はかつて主要言語だったが、現在では内戦と教育の欠如により、流暢に話せるのは老人世代に限られる。
宗教イスラム教が国教であり、国民の95%がムスリムである。ムスリムのうち98%はスンナ派である。その他の宗教が5%である。
キリスト教の影響は1970年代に教会運営の学校が閉鎖され、宣教師が帰国すると著しく減少した。国には1989年から一人のカトリック大聖堂の大司教もおらず、モガディシュの大聖堂は内戦中の1992年1月から2月にかけて深刻な打撃を受けた。
ソマリアの憲法はイスラーム以外の宗教の普及と伝達を妨げている。この措置は多くがキリスト教徒(特にアムハラ人とその他のエチオピア人)か土着の信仰を奉ずる近隣のアフリカ諸国から、ソマリアとの距離を広げている。
教育
1991年の中央政府の崩壊により、教育システムは私営となっている。初等学校は、内戦前600校だったものが今日には1,172校に達し、この三年間で初等学校の入学者は28%増加した[8]。2006年には、北東部のプントランド自治地域はソマリランド地域に続いてソマリアで二番目に無償の初等教育を導入した地域となり、今や教員は給与をプントランド政府から受け取っている[9]。ベナディール大学、ソマリア国立大学、モガディシオ大学、キスマヨ大学、ゲド大学など、ソマリアの八つの大学の内の機能している五つがソマリア南部に存在し、高等教育を提供している。
2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は37.8%(男性:49.7% 女性:25.8%)である
ソマリアの難民問題
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001994/0/kouza/section3.html
では初めにソマリアという国の解説をしていきます。
今、ソマリアを実行支配している政府はありません。実際に暫定政権はあるのですけれども、それは首都の一部だけを統治しているだけで、実際にはソマリアという国そのものは依然として無政府状態です。だから、私がソマリアへ行ったときも、ちょっと危ない目にもあったりして、怖い思いをしました。
何が一番怖かったかというと、いわゆる群集心理です。こういうことがありました。ソマリアの中で、反米集会、「アメリカ出ていけ」という集会をやっているんですね。そのとき、人々が熱狂的になっているのです。その反米集会は大体1000人とか2000人規模で行われます。それを私は近くで見ていました。なぜ中に入って行かなかったかというと、私が行く1週間前にジャーナリストが撲殺されたのです。なぜそうなったかというと、そのジャーナリストは、車でそういう集会の中に入って写真を撮ったのですね。相手は本当に生きるか死ぬか、食料が届くか届かないか、あるいはアメリカに家を爆撃されて、身内にもたくさん死亡者が出ている人たちの中で、パチパチ写真を撮っているわけです。現地では、カメラ一つ奪っても、家族が何年も暮らせるというような状況です。それに無政府状態ですから、警察とか裁判所とか病院などは全然ないのですね。そういう中で、海外から来て、カメラを持っているジャーナリストはあまりおもしろくなく見える。結局車から引きずり出されて、撲殺された。5人殺されたのです。それを私は知っていたので、そういうところに入っちゃいけないなと思って、遠くから見ていたのです。同じように車で、ガードマンを付けて。そうしたら知らないうちに取り囲まれていたのですね。そのときに、車をゆすられるわけです。この手で結局引きずり出されて殺されたのかな、これは絶体絶命だなと思っているときに、運良くアメリカの装甲車が反米集会の鎮圧に来たんですね。ちょうどそれと出会って、引きずり降ろされて殺されずにすみました。熱狂した群集心理というのは止められない。そういうことをひしひしと感じました。
ソマリアは赤道直下の“アフリカの角”といわれるところにあります。その角部分の隣がエチオピアで、その下がケニアですね。世界中から集まった緊急援助物資は、いったんケニアのナイロビ空港に集まり、ソマリアに向かって空輸されます。
なぜソマリアで問題が起こったかというと、“アフリカの角”というのは石油の輸送経路のところに当たるんですね。だからその利権をめぐっての大国の争いがあって、ソビエトやアメリカが介入してきました。ところが1991年のソビエト連邦の崩壊とともに、軍事均衡を取らなくてもよくなって、結局大量の武器を残したまま、アメリカが撤退するんです。そこで、今までアメリカの支援を得ていたバーレ大統領が、アメリカの後ろ盾をなくした結果、部族の不満が噴出して、内戦になったわけです。
ソマリアの首都モガディシオの空港には、PKO(国連平和維持活動)が介入しています。アメリカ軍中心のUN(多国籍軍)です。主な目的は援助物資の護衛です。なぜなら、輸送機がソマリアに着いて、貧しい人のところに物資が輸送されるのですが、その途中で、援助物資が強奪されるからです。当時の新聞の報道でいうと、70%の援助物資が強奪されたということです。その強奪された援助物資はどうなるかというと、武器を買う資金にするわけですね。だから、援助すればするほど武器が出回るという悪循環が起こっていました。援助物資を輸送する車は、絶対に途中で止まらないのです。僕が見ていたときも、二人くらい轢かれているのですが、絶対に止まらない。止まると全部強奪されてしまうからです。何百万人と飢餓状態にありましたから、それをまず助けるため、その援助物資がしっかり送られるための平和維持活動なのです。
ソマリア難民の援助プロジェクト
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001994/0/kouza/section4.html
多くの難民が、ソマリア本国から車や徒歩、船などでケニアへ移動します。“アフリカの角”で一番豊かな国はケニアなんですね。実際私がボランティア活動しているのは、そのケニアなのです。ソマリアではなかなかできません。ソマリアでは現在でも、赤十字とか、様々な団体の職員がかなり誘拐されています。だからなかなか近寄れないのです。
ケニアの首都ナイロビから、飛行機で約一時間行ったところに、8万人の難民がいるキャンプがあります。そこで援助を行っています。難民キャンプは国連と国際赤十字、そしてケニア政府が管理運営しています。国連は食糧の確保や難民の登録を、国際赤十字は医療や社会サービスを、ケニア政府は、土地や人材を提供し、警察官などを配備し、治安を守っています。
難民キャンプでは、人々は、国連から支給されたテントに住んでいます。ソマリアの部族対立が内戦の原因にもなったように、キャンプ内でも、部族ごとに分かれて生活します。食糧は援助物資によってまかなわれ、人々は仕事もなく食べるだけの生活を送っています。
難民キャンプの中でも、ルールをつくるなどして、小さな社会をつくっていきます。その8万人のキャンプをブロックごとに分けて、ブロックを組織するんです。その組織化を誰がやっているかというと、現地のソーシャルワーカーなんですね。だから何万人もの難民が、ただごちゃごちゃに住んでいるのではなくて、その中で医療班を決めたりして、小さな社会をつくってかないと、8万人なんて運営できません。小さな社会を組織することは、国際赤十字のスタッフは抜群にうまいですね。
ケニアで、どういうボランティアをしたかということについてお話します。
ボランティアの仕方はたいへん難しくて、援助の仕方を間違えると、大変なことになってしまいます。ひとつは、エチオピアであった話ですけれども、援助に依存してしまい、自分で職に就こうとか働こうという気持ちが一切なくなってしまったという問題です。何もしなくても援助で食べられたわけですから、自立を損なうのです。
それから、地域を壊しかねない、部族の争いをまた起こしかねないということです。どういうことかというと、ある人にはこれだけの援助がいって、ある人にはいかないというのは不平等ではないか、と対立するのです。生きるか死ぬかのところですから、そういうことが起こりやすいわけです。
というわけで、援助はたいへん慎重にやります。私が設立した団体は、小さな団体なので、食糧等を平等に配分するというのは難しいわけです。ですから、難民の中でも特に、障害を持った子供を援助の対象にすると言うと、皆、納得してくれるんですね。それは現地の人と話し合いながら進めていった結果決まったことです。
ある特定の子供に奨学金を与えたりすると、食事もままならないという状況では、すごくいがみ合いの原因になったりするのです。そういう意味で、赤十字の人や、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の人や、現地の人たちといろいろ話し合った結果、障害児に対するちょっとした支援であれば、大きなもめごとにはならないというわけです。
次にどういう子供を援助しているかについてですが、例えば、爆弾等で足がなくなってしまった子供たちに、杖とか車いすを贈っています。暗いテントの中で寝たきり状態という子供も多いのですが、贈った杖で、その子は外に出られるようになります。そういう医療などの援助をするボランティアをしているのです。
小さな団体なので小さなことしかできません。障害児に対して、「何が今必要なのか」とか、「何か困っていることはないか」ということを聞きまわってくれる人を、日本の会員のお金を使って現地で雇うのです。そして難民キャンプを訪問してもらうという、ある意味でソーシャルワーカー的な役割を担ってもらうわけです。それを障害を持っている大人の難民にやってもらっています。だから障害を持っている大人が、障害を持っている子供に対して支援するというような形になります。
援助のプロジェクトの内容で、重要なものとして、職業訓練プロジェクトというのがあります。障害児が、寝たきりになっているとか、おもてに出られない状況の中で、手に職をつけ、自分たちが生きていく力をつけるようなプロジェクトです。一時的にお金とか物をただ提供するだけでは、一時しのぎで、生きる力をつけたことにはならないですよね。ですからなるべく手に職をつけて、将来その子供たちが、障害を持っていても、自分の本国に帰ってからでも、職業に活かすことができるように計画しているということなんです。これも全部現地の人といろいろ話してつくった結果です。
それともう一つの大きなプロジェクトは、病院をつくるということです。難民のための病院です。何万人もいる難民キャンプの中には、病院がないといけないというわけです。これには、皆同意してくれました。その病院をコミュニティの中心にするわけですね。その病院を保健教育、衛生教育のセンターにして、周りにいる難民の人たちにそれを教えていく。日本でいうと、一つの地域の中核を担うような広報センターにしていこうという発想が出てきました。
実際このプロジェクトは、だいたい全部で通算して3年という目標を立てて行ないました。UNHCRという難民をつかさどる国連機関でも、必ず期限付きで援助するんですね。そうでないと、現地の人がずっと援助依存する可能性が大きくなるからです。
次に、援助のしかたの具体的な内容についてお話したいと思います。ある意味でNGOというのは誰でもつくれるわけです。特に具体的な手順とかはなくて、もっとも効果的につくるにはどうしたらいいのかということで考えたのが、顔が見える援助ということです。他のNGOの団体でも、実際にやっているケースはあります。日本でいうと、日本人と現地の人とを1対1で結ぶということです。それを里親制度と言ったりします。里親制度というのは、実際に本当の子供にするということではなくて、特に誰がどの子を援助していくかを決めるということです。多くの場合、大量の募金を集めて送ると、それが実際何に使われているかわからない。それでは援助の動機が湧いてこないということがあるんですね。ですから、「自分はこの子に杖を」とか、「あの子に車いすを」といった形で、なるべく「顔が見える援助」をする。そういうことが、やはり動機としてはいいのではないかと思います。
援助活動の注意点
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001994/0/kouza/section5.html
特にその中でも一番気をつけるのは、お金の流れなんです。年間にすると今まで数百万円から1千万円くらいのお金が動いています。実際にそれがどう使われているのかというと、日本の会員の人が、ある子を例えば3年間とか、期限付きで援助していくわけですね。1ヶ月だいたい2000円とか、そのくらいのお金を会員の方から振り込んでもらうわけです。そのプロジェクトの内容に現地で協力してもらうためには、必ず他の団体と手を結ばなくてはなりません。文化のまったく異なるわれわれ日本人が、そこに行って勝手にものを支給するのは、現地の人たちにとってはすごく抵抗があるわけです。やはりプライドがあって、援助を受けるのが嫌だというんです。でもすごく困っているのです。
そこで、現地の国際赤十字と、私が代表をしている小さな団体とが、手を結ぶわけです。2つの団体がどういう関係になるのかというと、例えば100万円なら100万円をどのように使うかというときに、もし赤十字の下部組織に入っていたら、100万円はただの募金になってしまう。だから、こちらがやりたいプロジェクトに関しては、ある程度それを実現してもらいたいという意思を伝えます。その内容は、障害児に対するちょっとしたサポートということですね。そこで、ある意味で国際赤十字と小さな対等関係になるわけです。100万円が全部、赤十字が思うように使えるということではなくて、なるべくこっちのプロジェクトを反映してもらいたいというようにもっていきました。仮に100万円ならその100万円の使い道が、例えば赤十字の職員の交通費になったり、あるいは本当に説明がつかないようなものだったら、日本の人に対する報告ができないわけですよね。もともと障害児に対して援助しますということで広報しているのに、ふたを開けてみたら、障害児ではなくて別の方にお金がいっていたのではだめだということです。ですから、杖なら杖、医療費なら医療費にどのくらいかかったか、そして誰々君の医療費には、日本の会員の誰々さんと誰々さんとが関わっているということです。そのように「顔が見える」という形に気をつけて、資金の流れをしっかりするということです。
その他に注意しなければならないのは、もともと部族対立があって内戦になったわけですから、同じ何万人というキャンプの中でも、対立しあう部族はやはり一緒に暮らせないということがあるのです。だから当然そこで、宗教とか、その人たちの文化とか、部族の価値観を最優先しなければならない。
ソマリアは、イスラム圏ですから、こういうことがあります。何人かのスタッフを募集したときに、ほとんど代表に男の人が出てきたんですね。だから、そのなかに女性のスタッフも入れたいということをこっちが言ってみる。そうすると、「代表として、そこに女性が出てくるのはおかしい」と言われるのです。それが自分たちの文化だと言い切られてしまう。しかし、それもある程度配慮していかないと、キャンプの中がまとまらなくなる可能性があるんですね。そういう文化の違いがあるので、直接日本人が現地へ行って、日本人の組織でやるというのではなくて、必ず国際機関を通して、その国際機関が現地のスタッフに集合をかけてやるというわけです。なおかつその現地のスタッフは、現地のやり方でやって、文化や宗教を完全に無視したようなことはしないというかたちで行います。なるべく現地の価値観を中心にして、私たちは金銭的な援助はするけれども、最終的な決定は現地に任せていく。そういうことに一番注意を払ったということです。
日本ユニセフ
http://www.unicef.or.jp/special/somalia/index.html
20年以上続く紛争や干ばつ、無政府状態・・・。150万人以上の国内避難民を抱え、360万人以上が人道的な緊急事態の中にいるとされながらも、国際社会から“忘れられた国”、ソマリア。
長い間の“無政府状態”によって、当然あるべき社会サービスが崩壊し、子どもの5人に1人は5歳まで生きることができません。女性や子どもは常に暴力や搾取の危険に晒されています。しかし一方で、この国の将来を担う子どもたちのために、自らの手でより良い社会を築こうと立ち上がった女性たちがいます・・・・
“忘れられた国”の再起に向けた活動とそこに生きる子どもたちの姿を、アグネス大使が報告します。
その他関連WEB
http://www.japanforunhcr.org/act/a_africa_somalia_01.html
http://www.huma.or.jp/activity/kenya.html
http://www.msf.or.jp/news/2001/07/125.php
http://www.msf.or.jp/news/2010/03/4461.php
http://www.rhq.gr.jp/japanese/hotnews/data/72.htm
http://prw.kyodonews.jp/open/release.do?r=200905202929
http://beluga-sage.blog.so-net.ne.jp/2009-06-02
http://www.afpbb.com/article/pressrelease/contribution/2586443/3959333
http://www.ntv.co.jp/sekaju/class/090815/03.html
最後まで読んでくれてありがと~~~♪
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